高エネルギー加速器研究機構の黒川眞一・名誉教授に聞く
藍原寛子
東京電力福島第一原発事故後、放射能の拡散と汚染に伴う住民の被曝影響を調べるため、福島県伊達市が市民にガラスバッジを配布し、収集した被曝線量データを用いた2つの研究論文が、社会問題に発展している。こうした研究は、人を対象とする医学系研究で、研究者は研究を開始する前に、被験者(研究の対象となる人)に十分に説明をおこなった上で、同意を取得することが義務づけられている。
一つは国際専門誌Journal of Radiological Protection(JRP)に掲載された「第一論文」
“Individual external dose monitoring of all citizens of Date City by passive dosimeter 5 to 51 months after the Fukushima NPP accident (series): 1. Comparison of individual dose with ambient dose rate monitored by aircraft surveys” http://stacks.iop.org/0952-4746/37/i=1/a=1
(「パッシブな線量計による福島原発事故後 5か月から 51か月の期間における伊達市民全員の 個人外部被曝線量モニタリング: 個人線量と航空機で測定された周辺線量率の比較」:和訳 黒川眞一・高エネルギー加速器研究機構名誉教授)
そして「第二論文」
“Individual external dose monitoring of all citizens of Date City by passive dosimeter 5 to 51 months after the Fukushima NPP accident (series): II. Prediction of lifetime additional effective dose and evaluating the effect of decontamination on individual dose”
http://iopscience.iop.org/article/10.1088/1361-6498/aa6094
(「パッシブな線量計による福島原発事故後5か月から51か月の期間における伊達市民全員の個人外部被曝線量モニタリング: 2. 生涯にわたる追加実効線量の予測および個人線量にたいする除染の効果の検証」:和訳は上記論文・同)
これらが和訳されたものも、以下に示す。
第一論文和訳http://www.ourplanet-tv.org/files/miyazakihayanopaper1.pdf
第二論文和訳http://www.ourplanet-tv.org/files/miyazakihayanopaper2.pdf
=Our Planet TV ホームページより
【問題の経緯~本題に入る前に~】
本題のインタビューに移る前に、今回の「社会問題」が発覚するまでの経緯について、簡単に触れておく。経緯をすでにご存じの皆さんは、次の小見出しの【批判論文は科学者の責務】からご覧いただけると幸いである。
批判論文は科学者の責務
問題の論文を執筆したのは、東京大学大学院の早野龍五・名誉教授と、福島県立医科大学の宮崎真・講師(平成27年1月から放射線に関する伊達市市政アドバイザー、 https://www.city.fukushima-date.lg.jp/soshiki/1/6285.html)の2人。以下、「宮崎・早野論文」と呼ぶことにする。
昨年(2018年)8月、このうちの第二論文に対して、黒川眞一・高エネルギー加速器研究機構名誉教授(加速器物理学)が、論文中の不整合や計算とグラフの違いを指摘する論文(Letter to the Editor, すでに発表された論文を批判する論文)をJRPに投稿し、3か月後の11月16日に「is ready to accept」(アクセプトする準備ができた=著者の応答が届いた時に、その応答と批判論文を同時に掲載する準備ができた段階)になった。
翌12月下旬、「被験者」とされた伊達市民から東京大学へ(早野氏に対して)、論文は「データ提供に同意していない市民のデータを使った可能性がある」などとし、倫理指針違反と研究不正の疑いがあるという申立がなされた。年が明けた2019年1月には福島県立医科大学へ(宮崎氏に対して)、同様の申立がなされた。
2019年1月8日、早野名誉教授は文科省記者クラブに「伊達市の外部被ばく線量に関する論文についての見解」とする文書を張り出し、同日、自身のツイッターで「70年間の累積線量計算を1/3に評価していたという重大な誤りがあったことと,その原因,意図的ではなかったこと,今後の対応,伊達市の方々への陳謝などを記した」とコメントした=写真。
文書では、黒川氏からの批判論文(Letter)を受けて、主著者とともに解析プログラムを見直したところ、第二論文について「70年間の累積線量計算を1/3に評価していたという重大な誤りがあることに、初めて気づきました」などとし、「誤りそのものについては、意図的なものではなかった」「Letterへのコメントとともに、論文の修正が必要」とJRPに申し入れたことを説明。
あわせて「不同意データが含まれているならば、事は誤りの修正のみにとどまらず、第一、第二論文そのものの扱いにも大きな影響を与える事態であると考えております」などと述べている。
早野氏の見解は、以下の文科省記者クラブに張り出された早野氏の「伊達市民の外部被ばく線量に関する論文についての見解」 ( 2019年1月8日=早野氏のツイッターで表示)参照。
早野氏のツイッター。論文に対する見解が「固定されたツイート」で表示されている(https://twitter.com/hayano 2019年2月14日閲覧)
2月4日には、相次いで動きが出た。住民からの申立を受け、論文不正を調査するかどうかを決める「予備調査」に入っていた東京大学は、「本格調査」に入ることを決定し、関係者に通知した。伊達市では、第三者委員会の「伊達市被ばくデータ提供に関する調査委員会」(委員長・駒田晋一弁護士)初会合が開かれた( https://www.city.fukushima-date.lg.jp/uploaded/attachment/38438.pdf )。3人の委員が、研究者に個人情報を提供した内容や経緯、方法などが、個人情報保護条例等、法律や規則に抵触しないかの調査に入った。
東大の本格調査開始に関し、筆者が早野氏に見解を求めたところ、「本格調査に入っておりますので、コメントは差し控えます」(2月8日、電子メール)との回答があった。
1月13日以来、JRPのウェブサイトでは、彼らの論文に対して編集部による「Expression Concern」(=「懸念の表明」)が表示されている。「懸念の表明」とは、論文の信頼性について疑義があることを読者に対して注意喚起する文章である。
宮崎・早野第二論文:矢印(筆者記入)部分にJRP編集部からの「懸念の表明」の注釈が入っている(http://iopscience.iop.org/article/10.1088/1361-6498/aa6094 2019年2月14日閲覧)
黒川氏は2017年5月に『WEBRONZA』(朝日新聞)で「被災地の被曝線量を過小評価してはならない 宮崎・早野論文『伊達市の周辺線量測定値と個人線量の比較』を考える」( https://webronza.asahi.com/science/articles/2017051000005.html )を、また今年に入り、伊達市住民(被験者)であり情報開示請求で資料を収集した島明美さんとの共著で、『科学』(岩波書店)2019年2月号に宮崎・早野論文の倫理的問題を指摘する論考「住民に背を向けたガラスバッジ論文」を発表。
さらに同年2月11日には「ハーバー・ビジネス・オンライン」への緊急寄稿「疑惑の被ばく線量論文著者、早野氏による『見解』の嘘と作為を正す」( https://hbol.jp/185193 )で、科学者が批判論文に対してどのように応答すべきかについての問題を指摘した。
黒川氏に、宮崎・早野論文の誤りや矛盾を発見した背景を聞いた。
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【批判論文は科学者の責務】
――今回、黒川さんが宮崎・早野論文への批判論文で指摘したことがきっかけで、宮崎・早野論文を修正するとの見解が著者から出されました。科学者によるオートノミー(自律性)が発揮された象徴的な出来事となりましたね。
黒川 いま「修正の見解が出た」とおっしゃいましたが、実は、今に至っても宮崎・早野両氏から、私が論文で批判した内容に対する応答は来ていません。文科省記者クラブへの文書張り出しとツイッターでの意見表明で「修正する」と答えたものの、その文書で早野氏が発表した内容は、私が指摘した誤りとは関係がない内容であり、見当違いな見解です。
――なぜ、すぐに応答できないのでしょう。
黒川 私が指摘した部分は10ほどあり、それらが複雑に絡み合っているため、1つ、2つの訂正では済まない可能性が高いです。極端な話、論文の大部分を書き換える必要が出てくるとしたら、最終的には「論文撤回」まで行く可能性もあるかもしれません。
――降圧剤ディオバンの論文データ改ざん、理化学研究所の若手研究者が中心となったSTAP細胞、韓国のファン・ウソク氏のES細胞事件など、研究論文不正問題が科学への不信や科学者への批判となり、社会問題になった出来事を想起させます。黒川さんが最初に「論文がおかしい」と思ったきっかけは何でしたか?
黒川 私は早野氏の若い時を知っているんですよ。彼がだいたい33,4歳ぐらいの頃までかな。彼は非常に優秀な学者でね。理解が速く、頭の回転も早くて、コンピュータを使うのがうまい。一目置く存在でした。ただ専門分野が違うから、以後は接点もなかった。ところが、たまたま彼の発言や書いたものを読む機会があり、「あれっ」と思ったんですよ。
実は私は30代前半に核実験に関してすごく調べた時期がありました。子どもの頃に太平洋での大気圏内核実験からの放射能雨に打たれ、最初のゴジラの映画を見る、という世代です。なおかつ、1968年の全共闘世代で、べ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」=ベトナム反戦、平和活動に参加した無党派市民)に参加し、哲学者の鶴見俊輔さんに直接教えを受け、そのプラグマティズム(実用主義 *注:文末)に触れ、「何よりも基本的人権が大切だ。それも基本的人権を頭で知っているだけではダメで、人権意識が反射神経になるまで理解しないといけない」と。また、言葉を大切に扱うことも学びました。
そういう世代ですからね。科学者、特に私のように広い意味でいうと原子核物理学者である者は、核兵器開発に関して、直接ではないが間接的責任を負っています。核実験ばかりでなく、原子力の平和利用に伴う被曝についても、責任があると考えます。「原子力の平和利用」は、いずれプルトニウムの厳重管理を前提とした「管理社会」につながる、民主主義の敵だと危機感を持っています。プルトニウムは人類が持つべきものではありません。
原発事故後、こうした自分の考えを少しは発信していくことが必要だろうとFacebookを始めました。そこで早野氏と相互フォローになり、彼が書くものを読むようになりました。あるとき、彼が、コピーライターの糸井重里さんと共著で『知ろうとすること。』(新潮文庫、2014年)を書いたと知ったので、買って読んだ。で、仰天した。嘘を平気で書いているから。
特に一番頭に来た嘘は、「核実験当時の放射能雨の方が、原発事故後の福島よりもひどかった」という趣旨の部分。頭に来ちゃった。しかもそこには「気象研究所にデータがある」と書かれている。実際に気象研究所のデータを調べたら、福島の方が圧倒的に高いことが明確に分かった。嘘がばれることを平気で書いていた。「読者は調べるはずはない」と思っている。傲慢さを感じました。どうせ調べることはできないから、教えてやろう。自分の言うことを聞いていればいいんだ、という態度が見え見え。
『知ろうとすること。』という書名であるなら、人々が真実を知るにはどうしたらいいかという方法を教えることが大事なのに、自分が宣伝したいことしか書いていない。科学の根本は言論の自由。批判と応答が大事。この本は全部押し付け。『知ろうとすること。』というタイトルだけれど、「私の言うことを聞きなさい」という本だな、と。こういう本がもてはやされているのは、日本の危機だと思いましたね。
それで気になって、伊達市のガラスバッジによる住民調査で外部被曝を調べた宮崎・早野論文を読みました。すると、問題が多数発見されました。ちょっと読んだだけでは分かりませんが、物理の論文を読むトレーニングを受けた人ならすぐに分かる、ひどい間違いが散見されました。「同じ大学で物理を学んだ科学者が、こんな論文を書くのは許せない」という思いが沸き上がってきました。
――物理学者は日本中にたくさんいて、さまざまな立場、考え方の人がいるはずです。それが、黒川さんが論文を出すまで、誰も問題を指摘しなかったのは、なぜなんでしょうか。
黒川 確かに、私が批判論文を出さなかったら、宮崎・早野論文はそのままだったでしょうね。そう考えると、「私があの論文を書かなかったら何も残らなかった」と思います。国内には物理学者、その関係する分野を含めて研究者は数十万人ぐらいでしょうか。ただ、早野氏に同調しているのはごく少数。ほとんどの人は論文を読んで「ああ、おかしなところがあるな」と思う。でもそれで終わり。
――同調者は少ないものの、大多数が「無関心に限りなく近い」。意外です。早野氏は仁科記念賞(故・仁科芳雄博士の功績を記念し、原子物理学とその応用に関し、優れた研究業績をあげた比較的若い研究者を表彰することを目的とした賞)も受賞した日本のトップランナーです。多くの人が、彼が出す論文に注目していたはずですが、もしかして権威の前に、何も言えなかったのでしょうか。
黒川 「ちょっとおかしいな」と思っても、「まあ、こんなものか」あるいは「自分とは関係ない」と思ってしまったのでは。なんせ、それぞれが狭い分野の研究をしているから……。私だって、『知ろうとすること。』に出会わなければ、批判論文は書かなかったと思います。
【倫理指針違反を擁護する国の「放射線審議会」】
――被曝防護基準を決める国の放射線審議会の事務局は1月25日の会合で、早野氏らが出した見解(前述・早野氏「伊達市の外部被ばく線量に関する論文についての見解」)を受けて、放射線基準を検証する報告書に引用・掲載していた宮崎・早野論文の削除を決定しましたが、「学術的な意義を全否定するものではない。結論に影響しない」としました。
黒川 ヘルシンキ宣言(世界医師会の「人間を対象とする医学研究の倫理的原則」)では、人を対象としている医学系研究の倫理的指針違反の論文は、学術的価値を認めないとしています。「科学や学術研究は、人間の基本的人権の上に立たない」、つまり基本的人権が最も高いレベルにあるという前提に立っています。ところが放射線審議会は「学術的な意義を全否定しない」という。要するに、「同意しない人のデータを使ったことは倫理指針違反だが、学術的な意義はある」としている。放射線審議会自体が倫理指針違反を堂々とおこなっていることになります。違反を犯しながら、それがおかしいことに気づいていない。
――同意していない伊達市民の人権が、国の機関で否定されてしまったような印象を受けます。
黒川 基本的人権の方が学術研究や社会的福利より上にあるということが分かっていないと、いずれ人体実験まで行ってしまいます。国の放射線審議会自体がそれを分かっていませんね。
【「科学的論争」でさえない】
――先ほど、「科学の基本は言論の自由」とおっしゃいましたが、応答がないということは議論ができていないことになりますね。
黒川 私は批判論文で、「第二論文の図7のグラフが示す値は、図6から計算した値と一致するはずだが、実際は半分しかない」など、宮崎・早野第二論文の自己矛盾点だけを追及しています。早野氏から回答が来れば、それに対する次の質問……というように、議論の応酬から科学的な論争まで発展するだろうと期待していました。ところが現時点で、彼らは一切答えてきていない。科学的な論争にも至らない。批判に耐えられないのかもしれないですね。
科学では、言論に対して言論で応答するという、言論の自由のプロセスが大事。だから科学論文は批判を受けることを前提とし、また批判を想定して書くものです。プロセスの中で修正に至ることもあるでしょう。ただし批判に応答しないのは、科学のプロセスの否定であり、「科学的ではない」ということになります。
繰り返しますが、批判と応答がなかったら科学にはならない。単なる押し付けです。ファシズムです。議論しながら研究を前進させるのが科学です。私は宮崎・早野論文について、不正だとか、改ざんだとかは一切言っていないんですよ。「このグラフから計算すると、こういう値にならないといけないけれど、実際には半分しか値がない。これはなぜ?」というように、彼らが発表したデータの矛盾点を、科学的なプロセスの一環として聞いているだけなんです。
【「教育者」としての早野氏への疑念】
――著者は批判に応答しなければならないということですが、非常に重い責任がありますね。
黒川 そうです。ICMJE(医学雑誌編集者国際委員会)は、著者の資格と責任について述べており ( https://www.honyakucenter.jp/usefulinfo/uniform_requirements2018.html )、そこでは「著者は論文の1語1語に責任を持つべき」としています。早野さんは、Dシャトルという測定器(1時間ごとの積算線量と総積算線量を記録する、千代田テクノル製の小型線量計)を使って、日本と海外の高校生を論文著者とする研究を指導・執筆していますね。これにはいくつか問題があります。
著者は高校生であってもよいが、専門家からの質問や批判に英語で議論し、応答する責任が伴います。応答は早野氏や他の指導者が一手に対応――というのでは、著者の資格が疑われます。
このほかにも問題があります。高校生ぐらいで、科学に初めて興味を持つ年代の場合、自分自身の関心や興味から研究テーマを自ら発見して設定し、自分で調べ、自分の頭で考えることが極めて重要です。まだ高校生なのに、誰かが敷いたレールの上を歩くような研究は、教育上も良くない。しかも、早野氏に対する倫理的な問題が疑われている現在、高校生の彼らに与える影響もあるでしょう。
私が初めて科学的な論考を書いたのは高校生の時。今でも本当によく覚えていますが、自分でそのテーマを思いつきました。柔道選手の勝敗と体重との相関です。柔道は男女とも体重別級があり、男子は例えば60キロ級、66キロ級、73キロ級、81キロ級、90キロ級、100キロ級、100キロ超級――などがあります。そのときは体重別がしかれたばかりのときでした。ただ、今でもそうですが、全日本柔道選手権大会は「無差別級」といって体重別級がない。
高校が東京教育大学(現・筑波大学)付属高校で、同級生のお父さんがかつて全日本選手権で優勝したことのある、東京教育大学の教授でしたので、話を聞きに伺い、講道館に勝敗の記録がすべて残っていることを教えてもらいました。今度は講道館に行き、データを入手して、身長、体重、勝った技の記録を統計で分析したところ、ある一定の体重差を超えると、そこからグンと勝率が高くなる、ということが分かった。今、振り返っても、この研究は面白いと感じます。こんな風に、自分の頭に浮かんだ疑問や知りたいことを追求する。自分だけのオリジナルな知の探求を続けていくことが、科学には非常に重要なのです。
【基本的人権は科学研究よりも優先される】
――黒川さんは、『科学』2月号で、「データ提供に同意していない市民のデータを使用」「研究実施前に市民に研究内容を公知せず同意撤回の機会を与えなかった」「伊達市長室から論文作成を依頼されたことを隠していた」――など7点の「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」違反があったことを指摘されています。
黒川 人を対象とする医学研究において、被験者への研究実施前・後の説明や報告、同意の取得は非常に重要です。個人の情報を無断で使うなどという基本的人権の侵害は決して許されるものではありません。「こういう研究にあなたの情報を使って良いですか」と、調査の前に説明し、同意を得ることと、使われたくない人が「使わないでほしい」と拒否する権利を行使する機会。その両方を設けないといけない。「自分のデータを使われない権利」も、個人が持つ極めて重要な基本的人権だからです。
今、特に医学では、論文不正が非常に多くなっており、この同意、不同意の確認について非常に厳しくなっています。物理学では論文の対象がモノや現象なので、同意についてはほとんど影響がありませんが、医学は全く違って人のデータを使っているため、常に基本的人権をどう守るかを考えなければなりません。
こうしたルールを定めているのが「人を対象とする医学系研究に関する倫理指針」(https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10600000-Daijinkanboukouseikagakuka/0000153339.pdf)です。同指針は、「基本的人権の方が科学研究や社会の福利よりも優先する」という原則に立っています。もしこれが無視されれば、「少数の被験者が犠牲になった人体実験をやっても、その他大多数が救われるなら、やってもいいじゃないか」などということになりかねません。
――黒川さんはこの『科学』の論考で、宮崎・早野論文が3本のシリーズになっているものの、第三の論文が提出されないまま研究が終了したことも批判されています。
黒川 第一論文は外部被曝と航空機で測定された空間線量の比較、第二論文は生涯線量の評価と除染の効果、第三論文は外部被曝線量と内部被曝線量の相関を調べるという研究計画です。ところが、研究終了報告書に「第三論文」として報告された論文は、伊達市が提供したデータを使っていないし、そもそも医学系研究でもありません。著者が早野氏と宮崎氏ということだけが共通しているものです。つまり、研究計画とは別物の論文が成果として報告されています。第三論文を発表しなかったのは、研究計画書では「外部被曝と内部被曝線量のあいだには相関がないことを予想する」と書いたのに、実際にやってみたら相関があったからだと想像します。伊達市が持っている資料で、2015年でも相関が分かるようなデータがあります。2011、12年度は、4万4千人ぐらいの対象者を調べたら、その9.4%が検出限界値を超えています。4千人もいたら、かなり統計的にエラーが小さい、クリアなデータが出ますよ。
――発表しないことの問題点は。
黒川 医学系研究は、前掲のヘルシンキ宣言にも書いてあるように、「予想と違う結果が出ても、結果を公表」すべきものです。不都合な情報でも発表して、社会への警告をする責務があるからです。例えば、薬の研究を進めた際、「人に害があったので研究結果を出さない」ということが万が一起こってしまえば、薬害が拡大します。もしも内部被曝と外部被曝の相関を調べて、もし相関が強いという結果が出た場合なら、なおさら、必ず発表して住民に説明し、被曝への注意を喚起しないといけない。その意味でも宮崎・早野論文が、倫理指針違反であるのは明らかです。
――利益相反の問題も指摘されています。
黒川 宮崎・早野論文は、伊達市からの依頼で論文を書いたことが明らかになっています。ところが論文には、重大な利益相反の可能性を持つこの事実が書かれていない。これも非常に大きな研究不正になります。
――科学の中立性についてはどうお考えですか?原発事故後、政府は「科学的」な根拠で被曝防護や避難などの基準を決める――としていますが、実際には「そうなっていない」と、住民から批判も出ています。
黒川 科学のルールで論文を書き、理論的な議論や批判をしたとしても、それで中立かどうかは分かりませんね。例えば原子力ムラや原子力を推進したい人は、宮崎・早野論文を歓迎するでしょうしね。私が科学的な手法でその論文を批判しても、政治的に中立とは見られない。
でも私は、中立かどうかはあまり気にしていません。中立かどうかより、科学的方法で研究がおこなわれているかどうかの方が、はるかに重要だからです。科学的方法とは、自分が持っているバイアス(偏見、思い込み、願望)を意識し、できるだけバイアスから自由になろうとすることだとも言えます。つまり、科学のルールに立ってやっているかどうかが重要。中立か、中立でないかを決めているのは、政治ですから。
*注 初稿の「実証主義」は「実用主義」の誤りでした。訂正します。黒川氏ではなく筆者藍原の誤りです。ご指摘ありがとうございました。(2019年2月18日午後9時3分 筆者訂正)