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2002年8月 国と東電、福島沖の「津波地震予測」を葬る

(国の責任を考える その1)

東京電力福島第一原発事故について、住民らが東電と国に原状回復や被害救済を求めた集団訴訟で、国の責任について最高裁が6月にも結論を出すとみられている。国や東電がどうやって事故を引き起こしたのか、原子力規制委員会が2022年3月に開示した文書などから、ふりかえってみる。まずは事故を防ぐ決定的な機会だった2002年8月の出来事を、原子力安全・保安院で当時、津波のチェックを担当していた川原修司・原子力発電安全審査課耐震班長が東京地検に供述した調書全16ページ(写真1)[1]を中心に見ていく(敬称略)。

写真1:原子力規制委員会の開示文書

「福島沖でも津波地震」長期評価の公表

あの時、国や東電がきちんと対処していれば東電原発事故は防げた。そんなチャンスが事故前に何回もあった。中でも2002年8月の出来事はわかりやすい。仙台高裁は、国の責任を認めた判決文の中で、当時の国の判断について「そもそも平成14(2002)年8月ごろの一審被告国の調査が不適切であったというほかない」と厳しく批判している[2]

場面は、一本の電話から始まる。

8月1日午後6時半ごろ、原子力安全・保安院の花村審査官は、東電の高尾誠に電話をかけた。花村は高尾に「統括の指示で、本日新聞に掲載された『三陸沖津波地震発生確率20%』に対して、三陸沖津波を考慮しているプラントが大丈夫であるかどうか、明日、説明を聞きたい」と伝えた。

統括というのは、花村審査官の上司、高島賢二・統括安全審査官のことだ(図1)。高尾は、東電本店の土木部門で、津波や活断層の調査を担当していた。

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図1:

ここで「本日新聞に掲載された」というのは、地震調査研究推進本部(地震本部、あるいは推本と略称される)が前日7月31日に発表した東北地方太平洋側の地震予測(長期評価)[3]の記事を指す。

長期評価は、東北地方の太平洋沖にある日本海溝で、1896年に発生した地震(明治三陸地震)と同様の地震が起きる確率が、今後30年以内に20%程度あると予測していた。明治三陸の津波は、最大で38.2mまで遡上し、2万人以上が亡くなっている。長期評価は、この津波が三陸沖だけでなく、もっと南の房総沖にいたるまでの「どこでも起きる」と予測した点が注目された。(長期評価にもとづいて福島第一の津波高さを計算すると15.7mになる。2008年3月に東電が詳細に計算している)。

高尾はこの電話を受けて1時間もしないうちに、日本海溝沿いに原発を持つか建設計画中だった東北電力(女川、東通)、日本原子力発電(東海第二)、電源開発(大間)に、保安院から指示があったことをメール(写真2)で知らせている。

写真2:原子力規制委員会の開示文書

40分間抵抗した東電

高尾は4日後の8月5日、保安院に説明に行った。対応したのは、花村審査官の上司である川原ら4人。このときのやりとりを、高尾は同日19時20分に、関係者にメール(写真3)で報告している。

写真3:原子力規制委員会の開示文書

それによると、川原らは、長期評価に従って、福島沖でも明治三陸地震と同じような津波地震を想定して計算すべきだと東電に伝えた。しかし高尾らは40分間くらい抵抗した。当時、東電は福島沖では大きな地震が起きないとする土木学会が定めた津波想定の方法を使っていた。長期評価は、それを覆すものだったからだ(図2)。

レベル720220503(図2)のサムネイル
図2:

川原は、検察に「谷岡先生と佐竹先生の論文[4]を根拠として、福島県沖から茨城県沖にかけては津波地震が発生しないことや、推進本部の長期評価が確たる根拠に基づかないことを主張して、計算することを拒否したのでした」と述べている。

この日、川原は東電の拒否を崩せなかった。長期評価の根拠を、推本の委員から聞いてくるようにと、高尾に宿題を出して会合は終わった。

「どちらが正しいかわからない」佐竹の返答

高尾は8月7日、推本の委員である佐竹健治氏(現東大地震研究所教授)に、問い合わせのメール[5]を送った。「(推本と土木学会で)異なる見解が示されたことから若干困惑しております」。

佐竹は「今後の津波地震の発生を考えたとき、どちらが正しいのかと聞かれた場合、よくわからない、というのが正直な答えです」と返答している。

佐竹は、明治三陸タイプの津波地震は、福島沖では起きないというモデルを提唱していた(谷岡・佐竹1996)。その佐竹でさえ、福島沖でも起きうるという推本の予測と、自分たちのモデルを比べて「どちらが正しいかわからない」と答えていたことを重く見るべきだろう。

事故後に、国は専門家の意見書を集めて「長期評価は不確実だった」と主張している。しかし、事故前には、もっとも詳しい専門家の一人でさえ「どちらが正しいかよくわからない」と述べていたのだ。東電が依拠していた土木学会のモデルに、確固たる根拠は無く、一つの考え方にすぎなかったことがわかる。

実用化されていない確率論で検討、を許した保安院

8月22日に、高尾は、保安院の耐震班・野田審査官に、8月5日に出された宿題の回答を伝える(写真4)。「佐竹先生は、推本の分科会で異論を唱えたが、分科会としては(津波地震は)どこでも起こると考えることになったとのこと」。佐竹は東電の高尾に対し、福島沖では起きないと考えるのか(谷岡・佐竹モデル、土木学会)、どこでも起きると考えるのか(推本・長期評価)、「どちらが正しいのか、よくわからない」と答えていたのに、高尾はそのことを保安院の野田に対し、あえて省いて回答していた。

写真4:原子力規制委員会の開示文書

また東電は、福島沖での津波を確率論で検討するとも伝えた。それに、野田審査官は「そうですか。わかりました」と答える。事故を防ぐ最大の好機は、これで終わってしまった。

確率論とは、確率論的津波ハザード評価のことで、福島第一の敷地を超える津波が襲来する確率を求め、それが10万年に1回より高頻度であれば対策を検討する、といった使い方をする。しかし、この方法は20年後の現在でも、原発の規制には用いられていない。不確実な部分が多いからだ。

仙台高裁は、この場面を「東電による不誠実ともいえる報告を唯々諾々と受け入れることとなったものであり、規制当局に期待される役割をはたさなかったものといわざるを得ない」[6]と批判している。

高尾は、5年後の2007年11月に東電と日本原電が開いた会議で、「これまで推本の震源領域は、確率論で議論するということで説明してきているが、この扱いをどうするかが非常に悩ましい(確率論で評価するということは実質評価しないということ)」と説明している(原電の作った議事録、写真5)[7]。「何もしていませんでした」と告白しているのである。

写真5:原子力規制委員会の開示文書

2002年当時は耐震設計審査指針の改定作業が進んでおり、2、3年中にも津波評価の見直し(バックチェック)が始まる見通しがあった。長期評価については、その時に本格的に検討すれば良いと保安院は考えて、東電の言い逃れを認めたように思われる。

川原の前任者である入佐伸夫は、福島沖での津波地震を想定しない東電の津波想定について2002年2月の時点で、「本件は民間規準であり指針でないため、バックチェック指示は国からは出さない。耐震指針改訂時、津波も含まれると思われ、その段階で正式なバックチェックとなるだろう」とコメントしている(写真6)[8]

写真6:原子力規制委員会の開示文書

ところが、東電の先延ばしと保安院の怠慢によって、津波のバックチェックは2011年になっても終わっていなかった。これについての詳細は、今後当サイトで報告していくが、長期評価発表後、福島第一が原発の技術基準をクリアしているのか調べないまま、保安院は9年間も運転を続けさせてしまったのだ。

数多い、いまだわかっていないこと

事故から11年も経過したが、福島第一の命運を決めたこの2002年8月の場面について、まだ明らかにされていないことが多い。

1)東電の高尾は40分も保安院に抵抗して津波地震の計算を拒否し、それをすぐにメールで関係者に連絡している。この計算拒否は、高尾個人の判断ではなく、上司からの指示があったと思われる。しかし長期評価を受け入れないことを、東電のどのレベルの立場の人物が決めたのかわかっていない(図3)。また、長期評価の津波が敷地を超えることを事前に概算でつかんでいたから、40分も拒否したのではないだろうか。

レベル720220513(図3)のサムネイル
図3:

2)保安院の高島統括安全審査官は、8月1日に部下を経由して東電に長期評価への説明を求めたものの、その後記録に出てこない。東電に計算を拒否された上、確率論的な検討でお茶を濁すという先送りに同意したのは、保安院側のどのレベルの立場の人物の意思決定だったのか、わかっていない。

3)8月5日に高尾が送ったメール(写真3)には、「福島〜茨城沖も津波地震を計算するべき。本日、東北電力から説明を受けたが、女川の検討では、かなり南まで波源をずらして検討している」という保安院側の発言が記録されている。女川は当時、長期評価にどんな対応をしたのか、そして保安院は東北電力と東電で対応の差を認めたのはなぜか、わからない。

4)8月1日に高尾が送ったメール(写真2)の宛先は、「安全審査連絡会 各位」となっている。電気事業連合会内部の組織と思われるが、この連絡会の実態はわかっていない。また、メールの文面に、推本の長期評価について説明がないことから、この連絡会内部では周知の事実で、対応も検討もされていたのではないだろうか。この連絡会の動きを含め、長期評価発表前後に、電力各社や電事連が何をしていたのか気になるが、これもわかっていない。

5)この2002年8月の一連の出来事は、当時のやりとりがわかる電子メールを2017年11月に東電が東京地裁に提出し、初めて公になった。それまで当事者の国(原子力規制委員会、法務省)、東電とも隠し続けていた。情報を隠すことを、事故後のどの時点で、誰が決めたのか、その経緯も不明だ。情報を隠して事故の解明を妨げたことは、原子力規制委員会の信頼にもかかわるだろう。

(続く)

[1] 東京地検 川原修司 供述調書 2013年4月24日 原子力規制委員会による開示2022年3月3日(原規法発第2203031号) https://database.level7online.jp/items/show/58

[2] 生業訴訟 仙台高裁判決文 p.211
http://www.nariwaisoshou.jp/progress/2020year/entry-846.html

[3] 地震調査研究推進本部 地震調査委員会 「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価について」 2002年7月31日
https://www.jishin.go.jp/main/chousa/kaikou_pdf/sanriku_boso.pdf

[4] 谷岡勇市郎、佐竹健治 津波地震はどこで起こるか 明治三陸津波から100年 科学66(8) 1996年8月 p.574〜581
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I4002205-00

[5] 国会事故調報告書 p.87

[6] 仙台高裁判決 p.209

[7] 証人高尾誠に示す証拠一覧表 資料31 (PDFファアイルのp.54)
https://database.level7online.jp/items/show/63

[8] 原子力規制委員会の開示文書 原規規発第1706154 の(資料6)件名:津波バックチェック
https://database.level7online.jp/items/show/20
https://database.level7online.jp/files/original/ca5ef39b40cd88547eda245f30150325.pdf

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添田孝史

1990年朝日新聞社入社。大津支局、学研都市支局を経て、大阪本社科学部、東京本社科学部などで科学・医療分野を担当。原発と地震についての取材を続ける。2011年5月に退社しフリーに。国会事故調査委員会で協力調査員として津波分野の調査を担当。著書『原発と大津波 警告を葬った人々』(岩波新書)他。

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