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責任あいまいにする東電廃炉資料館

東電廃炉資料館

「事故の事実を確認していただける場」

東京電力廃炉資料館[1]について、東電はパンフレットでそう説明している。同館は、2018年11月30日に、福島第一原発から南に約9キロの福島県富岡町に東電が開いた。「反省と教訓」「廃炉現場の姿」などを映像とパネル展示で説明している。12月19日までに2687人の来館者があったという。

本当に、同館の映像やパネルは「事故の事実」を語っているのだろうか。事故前の対応を中心に取材し、チェックしてみた[2]。その結果、事故原因について裁判での主張と異なる説明をしていたり、自社に都合の悪い事実を伏せていたりしていることが見えてきた。

裁判と違う顔、使い分け

玄関を入ってすぐのパネル(写真1)には、小早川智明東電ホールディングス社長のあいさつとして、「当社は事前の備えによって、防ぐべき事故を防ぐことができませんでした」と書かれている。

しかし、全国20か所以上の裁判所で被災者ら約1万3千人が東電に損害賠償を求めている訴訟では、東電は「事故は予見できなかった、防げなかった」と主張している。

「展示の社長あいさつと、裁判での主張は矛盾しているのではないか」。そう質問すると、東電福島広報部は「あの事故を天災だというふうに片付けず、防ぐべき事故であったという認識のもとで取りまとめた改革プラン[3]の内容を基にしております」と答えてきた。

意味がよくわからない。

写真1 廃炉資料館社長あいさつ

天災か、人災か、「二者択一できない」

「あの事故を天災だというふうに片付けず、防ぐべき事故であったという認識」は、展示の各所で述べられている。2階のシアターホールの大スクリーンの映像や、「反省と教訓」コーナーの映像[4](写真2は、このコーナーの解説パネル)でも、以下のように語られている。

「私達は、あの巨大津波は事前に予想が困難だったからと言う理由で、今回の事故を天災と片付けてはならないと考えています。私達は人智の限りをつくした事前の備えによって防ぐべき事故を防ぐことが出来ませんでした」

写真2 「反省と教訓」のパネル

この文言、「巨大津波は事前に予想が困難だった」の部分を見ると「事故は天災だった」と主張しているように解釈できる。一方、「天災と片付けてはならない」「防ぐべき事故を防ぐことが出来ませんでした」の部分は、「人災だった」と言っているようにも見える。天災と人災、どちらと判断しているのか、わかりにくい文だ。

東電に聞いてみた。

(東電)「福島原子力事故を、人災か天災か二者択一で判断することはできないと考えております」

(筆者)「二者択一で判断することはできないとする理由は」

(東電)「改革プランをまとめています。二者択一していません。二者択一できる性質のものではないと考えているからです」

(筆者)「二者択一できない性質とは、具体的になんですか。改革プランのどこに書いてありますか」

(東電)「これまでの回答の繰り返しとなります。これ以上はお答えできません」

あいまいで意味のわかりにくい回答を東電側が繰り返すため、ここまでたどり着くのに最初に質問してから16日間かかった。

(筆者)「『二者択一できない』という資料館の展示と、『人災ではない。避けられなかった。天災だ』という法廷での東電の主張が異なっているのは、どう考えたら良いのですか」

(東電)「司法の場で審理されている事項であるため回答を差し控えさせていただきます」

傍聴者の限られた裁判では、東電は「天災だ」と主張。一方で、多くの人が訪れる被災地の資料館では「天災と片付けず、防ぐべき事故だった」と言い、反省しているような姿勢を見せる。地元の反感を抑えるための、東電の方便のように思われる。

不都合な事実は示さない

「反省と教訓」コーナのナレーションで語られる「事実」にもいくつか疑問がある。

たとえば「巨大津波は事前の予測が極めて困難ではありました」と断定しているが、それは「事実」なのか。

2007年には福島第一原発6号機から北へ5キロ、海岸線から約1キロの浪江町請戸で、大津波の痕跡を東北大学の研究者らが見つけていた。約4000年前からこれまでに、貞観地震(869年)など5回分の跡があった。

東北電力は、その大津波にも対応できることを確かめ、報告書を事故前に原子力安全・保安院に提出していた。東電も、貞観地震が再来すると敷地を超える恐れがあることを2008年には計算していた。しかし対策はせず、津波を計算していた子会社の東電設計に、貞観地震のリスクについて「1オーダー(1けた)程度低くならないか」と小さく見えるように値切り交渉をしていた[5]。「予測が困難」どころか、予測結果を承知したうえで、リスクが低く見えるように裏工作まで進めていたのだ。

(筆者)「貞観地震の例を考えれば、『極めて困難』というほど、予測は難しくない。東北電力は対策まで済んでいたのだから」

(東電)「展示内容に関するご意見等については、今後の館の運営の参考とさせて頂き、より伝わりやすい情報発信に努めてまいる所存です」

(筆者)「『津波の予測が困難で、事故は避けられなかった』という東電の主張を、裁判所は認めず、敗訴が続いている。それに全く触れず、御社の主張だけ『事実』として紹介するのは、被災地における資料館としては不適切なのではないか」

(東電)「司法の場で審理されている事項であるため回答を差し控えさせていただきます」

このほか、国の地震調査研究推進本部が予測した津波地震についても、日本原電の東海第二原発は対策を終えており、一方で東電は「検討中」だった。こんな東北電力や日本原電の取り組みのような、自社に都合の悪い事実は、同館では示されていない。

その点について指摘すると、「展示内容に関するご意見等については、今後の館の運営の参考とさせて頂き、より伝わりやすい情報発信に努めてまいる所存です」という回答だった。

「住民への対応」展示も欲しい

廃炉資料館は、もともとは福島第二原発のPR目的で作られたエネルギー館を改装してオープンした。「資料館」と名称を変えたものの、このままでは新たなPR施設になってしまいかねない。

個人的には、事故の後、東電が住民にどう対応したかの展示も必要だろうと思う[6]。「分厚い」「分かりにくい」と不評だった、賠償を請求するための書類や、事故で放出した放射性物質を「無主物だ」と東電が主張した裁判の文書も歴史記録として展示して欲しい。和解仲介手続き(ADR)を東電が拒否し続けている実績や、「事故は防げなかった」と主張する東電が裁判では負け続けていることも、「事故の事実」として示すべきだ。

「事故の記憶と記録を残す」という廃炉資料館であれば、それらも必須の資料ではないだろうか。

[1] http://www.tepco.co.jp/press/release/2018/1502024_8707.html

[2] 記事は、2018年12月3日現在の展示や映像をもとにしている。

[3] 東京電力 福島原子力事故の総括および原子力安全改革プラン 2013年3月29日 http://www.tepco.co.jp/cc/press/betu13_j/images/130329j0401.pdf
東京電力 福島原子力事故調査報告書(社内事故調報告書) 2012年6月20日

http://www.tepco.co.jp/cc/press/betu12_j/images/120620j0303.pdf

改革プランの報告書は「社内事故調報告書は、事故前後の状況について事実関係を詳細に調査した結果を整理しているものの、事故を防げなかった原因に関して十分な分析結果が示されておらず、社内調査を中心とした自己弁護に終始した報告書であるとの厳しいご批判をいただきました」(p.6)と書いている。ただし「事故は天災だった。防げなかった」と主張している社内事故調査報告書の事実関係を否定しているものではない。
改革プランに「巨大な津波を予想することが困難であったという理由で、今回の事故の原因を天災として片づけてはならず、人智を尽くした事前の備えによって防ぐべき事故を防げなかったという結果を真摯に受け入れることが必要と考えます」(p.9)という文言が登場する。しかし、天災か人災か二者択一できないことや、その具体的理由は説明されていない。

改革プラン報告書のp.16からp.20には「2.2 津波高さの想定と対策」について記述されているが、内容にはいくつか誤りがある。

たとえば、東電は「電気事業者が津波評価のツールとしている土木学会の『津波評価技術』では、福島県沖の海溝沿いの津波発生を考慮していない」(社内事故調査報告書p.21)とし、改革プランでも「『原子力発電所の津波評価技術』(土木学会手法)は決定論に基づく津波評価手法を示したものであり、過去に大規模な津波が発生した記録がないこと等から福島県沖の日本海溝沿いに津波波源を想定していなかった」と書いている。

しかし、土木学会津波評価部会の中心メンバーだった今村文彦・東北大教授は「福島県沖の日本海溝沿いに将来津波が起きるかどうかは検討していない」と証言している。そもそも、想定のための検討さえなされていなかったのだ。https://level7online.jp/2018/%E3%80%8C%E5%9C%9F%E6%9C%A8%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E3%81%A7%E5%AE%89%E5%85%A8%E7%A2%BA%E8%AA%8D%E3%80%8D%E5%AE%9F%E3%81%AF%E6%A4%9C%E8%A8%8E%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F/

[4] 「反省と教訓」の映像(約12分)のナレーションは以下のとおり。(聞き取りによる。下線は筆者)

 

福島第一原子力発電所では、1971年3月に1号機が運転を開始して以来、合計6基のプラントが震災までの40年間、この福島の地で運転を続けてきました。

原子力発電を行うにあたり、さまざまな自然災害や設備トラブル、万が一の事故の際でも、みなさまが暮らす社会に放射性物質を漏らさないよう、安全に万全を期していると思いこんでいました。

しかし、2011年3月11日、今まで経験したことのない極めて大きな地震と津波に襲われた結果、安全設備のほとんどが機能を失いました。

あってはならない燃料の溶融や、水素爆発を複数のプラントで発生させました。私達が思い込んでいた安全とは、実は私達東京電力のおごりと過信にすぎなかったことを、まざまざと思い知らされました。

なぜ、事前の備えで防がなければならない原子力事故を、私達は防げなかったのか。なぜ、事故の拡大を最小限に食い止められなかったのか。

今回の事故を防げなかった原因を明らかにするため、津波や過酷事故に対する事前の備えを厳しく振り返った結果、まだまだできることがあったと深く反省しています。

震災前は、マグニチュード9もの史上最大級の巨大地震が現実に起きることを、発電所の敷地を上回る15mもの大津波が来うることも差し迫った重大な危機だと認識することができませんでした。

発電所の設置を許可いただいた当時の津波高さの想定はチリ地震による津波を踏まえた3.1mでした。その後も最新の知見を踏まえて見直しを重ね、震災前の津波高さ想定は6.1mで、それに必要な対策は実施していました。

しかし、それでも、今回の大津波に備えたものとしては全く不十分でした。

自然現象であるがゆえに、これほどの大地震、それに伴う巨大津波も事前の予測が極めて困難ではありました。しかしながら、これだけの大事故を起こしてしまった今、厳しい目で過去を振り返ってみると、津波に対して有効な対策を検討する機会はありました。

1つ目は2002年に国の地震調査研究推進本部が三陸沖北部から房総沖の日本海溝沿いのどこでも大地震が発生する可能性があると見解を発表したとき。

2つ目は2004年にスマトラ島沖地震で、巨大津波が現実に発生したとき。

3つ目は海外の津波や浸水による原子力発電所の被害事例を踏まえた政府主導の勉強会が開催されたとき。

これらについては、これまでの評価方法で十分であると考え、さらなる対策を考えませんでした。

最後に2008年、津波波源を福島沖において試算を行い、最大で15.7mとの結果が出たとき。このときは試算の結果の信頼性についても議論し、技術的な妥当性が確認できないとして、専門機関に審議を依頼したのですが、その検討中に2011年を迎えたのでした。

いくつもあった機会を逃した理由の一つは、津波という不確かさが大きな自然災害に対して、謙虚に向き合う姿勢が不足していたことです。

また、津波は巨大な防潮堤で防ぐとの大規模な対策にしか頭がまわりませんでした。

津波を完璧に防げなくても、事故の原因となった全電源喪失や冷却機能喪失に備え、もっと機動的に実施可能な対策を発想する頭の柔らかさが不足していました。

さらに、津波対策が必要だと率直に社会にお伝えし、議論に真摯に向き合おうとする誠実な姿勢も不足していました。

過酷事故が起きてから、その影響や被害の拡大を防止するための有効な対策を講じることができず、大量の放射性物質を環境に放出する事態を招いてしまいました。

これまで、過酷事故対策として格納容器の圧力を下げるベントシステムの整備、非常用電源を複数の号機間で融通しあえるようにしたり、消火用配管で原子炉に注水できるようにするなどの対策を積み上げてきました。

しかし、これらの対策をとった時点で、私達はこれで十分に安全になったと考えてしまい、過酷事故が発生する可能性は十分小さいと思い込んでしまいました。

その結果、海外で発生していた洪水で電源喪失に陥った事例や、送電線事故による電源喪失事例、津波による海水ポンプの機能喪失事例など、今回の事故の予兆となる海外の情報を知りながら、これが私達にも起こりうることととらえ、対応を考えることができませんでした。

また、米国では、原子力発電所へのテロ対策として、さまざまな対策が講じられており、それらの対策がなされていれば、事故の進展を少しでも緩和できた可能性がありましたが、その情報をとらえることができませんでした。

さらに、過酷事故対策の必要性を認めることで、現状の原子力発電所が十分に安全であることを証明するのが困難になるのではないかと考えてしまいました。

いざ事故がおこった際の備えも、十分ではありませんでした。事故前には、長時間にわたる電源喪失や、同時に複数の原子炉が深刻な状況に陥る事態を想定した訓練や、資機材の備えが十分ではありませんでした。その結果、今回の事故対応の際には、発電所の所員だけでは高圧ケーブル接続や重機操作など、一刻を争う危機への対処に必要な作業を行えませんでした。

あわせて、判断や権限を発電所長一人に集中させた組織上の問題や、状況の的確な把握と情報共有ができなかったことなどが事故対応をさらに難しくしました。

また、生命や健康を脅かしかねない原子力事故の状況を、地元や社会の皆様に迅速かつ的確にお伝えすることもできませんでした。津波、過酷事故、事故対応への事前の備えが不十分だった背景にある相互関係を模式化したのがこの負の連鎖です。

東京電力は、安全意識、技術力、対話力の不足が互いに影響し、強化される負の連鎖に陥っていました。安全はすでに確立されたと思い込み、リスクも過小評価してしまった、安全意識の不足がありました。

その結果、過酷事故の可能性は十分に小さく、さらに安全性を高める必要性は低いと思い込んだ結果、稼働率などを重要な経営課題と認識していました。

技術力にも問題がありました。地震に強い発電所を目指し、設備改良に取り組む中、設計やトラブル対応などで社外のメーカーや協力企業への技術依存が進み、自ら事故に備える技術や対応能力を高めることが十分ではありませんでした。

過酷事故や、複数号機同時被災が起こると考えていなかったため、現場の事故対応の訓練や資機材の備えが不十分でした。

社会に対する対話力も不足していました。

原子力発電所の安全は確保されていると説明してきたことで、さらなる安全対策の追加は現状の安全水準は十分ではないと受け止められてしまうのではないかと恐れ、積極的にリスクを訴えることをためらいました。

この負の連鎖に気づくことも止めることもできなかったことが高い安全水準を高め続けられなかった背景であると深く反省しています。

この連鎖を断ち切り、安全を最優先とする組織に生まれ変わることが私達東京電力の責務です。

原子力というエネルギーを扱う事業者には一般産業をはるかに上回る高い安全意識と使命感が必要です。常に弛みなく世界中の知見や最新技術を取り入れ、安全性を向上させ続ける不断の努力を続けなければなりません。

私達は、あの巨大津波は事前に予想が困難だったからと言う理由で、今回の事故を天災と片付けてはならないと考えています。私達は人智の限りをつくした事前の備えによって防ぐべき事故を防ぐことができませんでした。この事実に正面から向き合い、私達東京電力は、真に反省いたします。そのうえで、原子力事故を決して忘れることなく、昨日より今日、今日よりも明日の安全レベルを高め、比類なき安全を創造しつづける原子力事業者になることをここに決意いたします。

[5] 東電刑事裁判の第21回公判(2018年7月24日)

https://level7online.jp/2018/%E7%AC%AC21%E5%9B%9E%E5%85%AC%E5%88%A4%E5%82%8D%E8%81%B4%E8%A8%98/

[6] 東電は「廃炉資料館はオンサイト(敷地内)のテーマを中心にしている」と説明しているが、企業として事故の被害者にどう対応したかの記録を残し、教訓とすることは、企業の資料館の役割ではないだろうか。

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添田孝史

1990年朝日新聞社入社。大津支局、学研都市支局を経て、大阪本社科学部、東京本社科学部などで科学・医療分野を担当。原発と地震についての取材を続ける。2011年5月に退社しフリーに。国会事故調査委員会で協力調査員として津波分野の調査を担当。著書『原発と大津波 警告を葬った人々』(岩波新書)他。

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